キッズ政治漫画(Hatena版)abemaぶっ飛ばせ!

キッズ政治漫画 安倍自民党のうんこ性研究サイト. 日本の政治・社会のニュースを、小学生対象にして、漫画にして報道します

2023-12-20から1日間の記事一覧

安倍派犯罪集団は国葬偽装反省し国葬取り消した。偉いぞ,チン三。カバー「チキンライス」

安倍派犯罪集団は国葬偽装反省し国葬取り消した。偉いぞ,チン三。カバー「チキンライス」 引用:チキンライス - 浜田雅功と槇原敬之// covered by 長瀬有花 https://youtu.be/-fPzmVzs7S8 www.youtube.com

清沢洌「暗黒日記」s20/1/1  空襲にあい、日本人は戦争が分かってきた? 無理だろうな、ぷぷぷぷ

昭和二十年一月一日(月) 昨夜から今曉にかけて、三回空襲警報鳴る。燒夷彈を落したところもある。 配給の餅を食って、おめでとうをいうと、やはり新年らしくなる。曇天。 日本国民は、いま初めて戰爭というものを経驗している。戰爭は文化の母だとか、百年…

清沢洌「暗黒日記」s19,12,30,憲兵が或る奥さんを打ちのめした。

十二月三十日(土) 片岡鉄兵君、和歌山の知人宅で死亡。その内輪の葬式をやるとのことにて赴く。生命保險を十万円つけてあったとのことで、未亡人は路頭にまず迷うまじ。 末次信正海軍大將死すとの報あり。彼は日米戰爭論者の巨頭である。徳富と末次に対し…

清沢洌「暗黒日記」s19松本駅長がスパイだと大騒ぎ

十二月十六日(土) 昨夜は空襲警報鳴らず。非常によく眠れた。なんだか落し物をしたような気持ちである。 夕方清野道之君が遊びに來る。同君の話―― 松本の駅長がスパイだというので大騷ぎをした。駅長のところへ色々の物が届けられる。駅員が不思議に思って…

清沢洌「暗黒日記」s19,12月 御手洗辰雄「神州憤激して起つ」??

十二月十三日(水) 外交問題処理には屈伸性のある心的姿態が必要だ。これが日本人にはない。ユダヤ人問題を説く連中――現在、日本の中心になっている連中――に、とくに然り。「現代」十一月に座談会あり、「神州憤激して起つ」というのである。その中で御手洗…

清沢洌「暗黒日記」s19 小泉信三の変節、驚愕

十二月九日(土) 小泉信三氏は慶応義塾長で内閣顧問だ。痩せて、五貫目ほど減ったというが、それでも最近一貫五百匁ほどふえたという。驚いたことには、全く右翼的になっている。「戰爭がどうなっても、米国の奴隷になるよりいい」と彼はいう。「奴隷になる…

清沢洌「暗黒日記」s19 軍隊の子供だましの宣伝が続く。日本人全部抹殺

八月十一日(金) 午後、軽井沢に赴く。途中、大島博光君という詩人と逢う。先ごろ帰りの汽車で老海軍少佐と同席したが、米軍は結局毒ガスをまいて、日本人全部を抹殺してしまうだろうと、眞面目に話していた由である。そうしたのが現在の宣伝方針である。八…

清沢洌「暗黒日記」s19 笹川良一の汚さ 大阪維新の松井一郎の関係

八月七日(月) 東京に帰る。一日雨降る。 頭山満に対する非難、その方面の陣営から聞く。いわく、巨額の金を東條に与えていたとか、その長男秀三は特殊技能者ということで、徴兵をまぬがれているとかいうのである。頭山自身も憂国者顏などできた義理でなく…

清沢洌「暗黒日記」s19 小磯という男、東條と杉山元帥のいたわり、ぷぷぷぷ

七月二十四日(月) 小磯(国昭)は二・二六事件の黒幕であり、有名な南進論者だ。昭和十五年八月、近衞内閣に蘭印特派の交渉をうけ、小磯も一挙に南方問題を解決せんとしたが、時の政府の容るるところとならず、小林商相が代って特派された。当時、松岡外相…

清沢洌「暗黒日記」s19 息子戦死、靖国にまつる?? 怒り

七月二十二日(土) 国際関係研究会に赴き、帰りの頃は内閣の顏触れ判る。新味は緒方君が国務大臣となり、情報局総裁を兼務したことだ。これは兎に角一つの進歩である。 源川栄二君の話――先頃、滋賀県の親戚で、ひとり息子を兵隊として失った家を見舞いに行…

清沢洌「暗黒日記」s19 海軍中佐の伝記、クリスチャンだから出版却下。

七月十二日(水) 中央公論の藤村君の話――羽仁説子さんが藤田(雄藏)海軍中佐の伝記を書いた。飛行士として非常に優秀な成績をのこした人である。それが「子供の科学」で評判になったので、手を入れて一冊にまとめて届出た。同社では推薦図書にでもなると考…

清沢洌「暗黒日記」s19 7月11日 中央公論、改造の廃棄

七月十一日(火) 中央公論、改造の廃棄が発表された。情報局橋本(政実)第二部長の談によれば、両社の営業方針中に、戰時下国民の思想指導上許し得ない事実のあることが明らかになったので、自発的廃棄を慫慂したという。これで「現代」「公論」の右翼一本…

清沢洌「暗黒日記」s19学徒動員、勉強時間なし、国防国家、軍隊教育

七月四日(火) 鮎沢君のところに招かる。三井、蝋山および僕が客である。三井君の話に、中学校、女学校の三年以上は、ことごとく軍需工場に出て働かなくてはならぬ。学徒動員だ。学習は一週間六時間つまり一日一時間である。いわんや大学生は全然学習の時間…

清沢洌「暗黒日記」s19中央公論社長更迭命令

七月三日(月) 朝早く軽井沢に來る。偶然、高崎から蝋山君の乘り込むに逢う。蝋山君から島中君の中央公論社長辞職問題をきく。一、蝋山君に代行社長になってくれと交渉があったが辞退した。二、神奈川の特高課長が島中君の訊問が終ったとき、「結果はいずれ…

清沢洌「暗黒日記」s19 高橋亀吉の大東亜共栄圏話???

六月十四日(水) 外務省に行くと、高柳君よりお礼として一千円与えらる。重光外相から機密費として受取ったのだと。 国際関係研究会に赴く。高橋亀吉君の講演あり。大東亞共栄圈の構想であるが、矛盾にみちている。こうした問題は、やはり彼はダメである。

清沢洌「暗黒日記」 s19 大本営発表に逆らう罪の人

五月二十七日(土) 青木得三氏(庶民金庫理事長)の話――渡辺銕藏博士が懲役一年(執行猶予三年)の判決をうけたが、罪状は二つあり。ひとつは「大本営発表にも誤りあり。相手の損失を誇大に言い、当方のそれを余りに発表せず」と言ったこと、第二には「ドイ…

清沢洌「暗黒日記」s19鈴木庫三 出版関係の許諾の独裁者と言われる。

五月二十日(土) 午後、経済倶樂部中央会の評議員会に赴く。この会は東洋経済の別働隊だが、かつて評議員の名を情報局に提出した。当時はこうしたものの人選は、大小となく情報局――つまり軍部に相談したものである。しかるに、そのころ絶対権を握っていた鈴…

清沢洌「暗黒日記」s19外務省嘱託 憲兵隊に引っ張られる話 

五月十七日(水) 外務省に行く。高柳君の話では、僕が祕密の消息話しを外部に洩らすというので、憲兵隊のブラック・リストに載っているという。僕は機密のことなんか一切しらぬのだが、講演会などで英字紙にあるようなことを話すのを、物知らぬ連中が「祕密…

清沢洌「暗黒日記」 s19 細川嘉六の東亜共栄圏諸問題を読む(横浜事件で拷問された人)

五月十一日(木) 世界新秩序のことについて研究するため、まず中央公論社の「東亞共栄圈の諸問題」を読む。蝋山、東畑(精一)両君のを読み、また細川嘉六のものを読む。 蝋山君は驚くべき頭脳であるに拘らず、筆力なし。書いたものは平板である。細川君の…

清沢洌「暗黒日記」s19 徳富蘇峰??神国日本の破綻

久しぶりに改造を読む。蘇峰の巻頭論文あり。時局を樂観も悲観もせず正視するという。それから日本の近情を不親切で形式主義だと攻撃している。この人の頭には二つの日本が劃然として存在している。それは神国日本と堕落日本だ。そして日本が堕落したのは西…

清沢洌「暗黒日記」s19 清沢洌氏の記事を許可するところが少なるなる

三月二十七日(月) 午後、樺太紀行を草す。僕の原稿を出すところは東洋経済のみである。小汀君も日本産業経済にのせるのを断ってきた。恐らくは例の方面への遠慮からだ。

清沢洌「暗黒日記」s19 疎開に警察の手が入る、ぷぷぷぷ

三月二十一日(火) さきごろ避難荷物の檢査があった。その檢査官は、出入りの大工松村である。われらの隣組長を従えて挙手の礼をして、「よく出來ました」とほめて行ったそうだ。ワイフは、「いままでは勝手口から出入りするにも遠慮してましたのにね」とい…

清沢洌「暗黒日記」s19 毎日新聞が陸軍情報局に怒られた、その顛末?

今年二月二十三日の毎日新聞は「勝利か滅亡か」と題し、特別活字の記事を一面に出した。その中に「太平洋の攻防の決戰は、日米の本土沿岸で行われるものではなくして、教千海里を[#「教千海里を」はママ]隔てた基地の爭奪をめぐって戰われるのである。本…

清沢洌「暗黒日記」s19 同志社大、立教大、青山学院大の総長の悲劇

s19 四月二十五日(火) さいきんキリスト教主義学校にまつわる悲劇が多い。同志社大学の湯浅(八郎)総長の辞職は勅語の読みちがいといったことであり、立教大学の木村校長も勅語を読むとき、壇の中段でしたとか、なんとかいったことであった。先ごろの…

清沢洌「暗黒日記」s18 ナチスとドストエフスキー

昭和十八年一月八日(金) 三十一日、熱海山王ホテルに至り、七日午後帰宅。 ジャパン・タイムズがニッポン・タイムス、東京日々新聞が毎日新聞に改名。また、バタビアがジャカルタに、マレイがマライにそれぞれ改名。名を変えることが、いちばん樂な自己満…

清沢洌,暗黒日記 チョビ銀行券、自由主義者であった小汀利得の有り様、可笑しき

引用:wiki 中央儲備銀行(ちゅうおうちょびぎんこう)とは、中華民国の汪兆銘政権の中央銀行。1940年(中華民国29年)12月21日に創立し、1941年1月6日に開業した[1]。ポツダム宣言受諾にともない、閉鎖機関令に基づき閉鎖され、汪兆銘政権崩壊とともに瓦解し…