五月二十日(土)
午後、経済倶樂部中央会の評議員会に赴く。この会は東洋経済の別働隊だが、かつて評議員の名を情報局に提出した。当時はこうしたものの人選は、大小となく情報局――つまり軍部に相談したものである。しかるに、そのころ絶対権を握っていた鈴木(庫三)という少佐が、僕の名を除いたそうだ。この鈴木という少佐はその頃の日本思想界の独裁者で、出版関係は何ひとつとしてこの人の許諾によらぬものなく、講談社あたりでは同人の書を出版して、多額の印税を贈ったと言われる。
行政と政治が若い連中に渡っては、大東亞戰爭は必然であった。下克上の風潮が、国家を冒險に赴かしめたのである。政治と外交が中央部を通れば、よほどのわからずやでも愼重である。