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比較することは大変に憚られる。伊藤博文氏と安倍チン三だ。

比較することは大変に憚られる。伊藤博文氏と安倍チン三だ。

 

引用:読売

ひしひしと伝わる喪失感

 

 明治42年(1909年)10月、訪露の途中にハルビン駅で凶弾に倒れた伊藤については、以前、このコラムでも紹介した( こちら )が、伊藤の死は、今年7月に遊説中に銃殺された安倍元首相と重なる点も多い。弔辞からは、友人を突然失った菅氏の喪失感がひしひしと伝わってくる。

 だが、菅氏が引用した政治学者、岡義武(1902~90)が『山県有朋』のなかで「かたりあひて」の歌を紹介したくだりは、意外に淡々としている。伊藤の凶報に接した山県は「 驚愕(きょうがく) するとともに、松下村塾の昔以来50年にわたる交友の跡を回想し、また過去の日の伊藤とのかずかずの政治的交渉を思いうかべて、感慨に沈ん」で、「かたりあひて」の歌を詠んだ、とあるだけだ。山県は伊藤の暗殺をどう受け止め、どんな感慨に沈んだのか。岡が記した「驚愕」「交友の跡」「政治的交渉」について、その内容を、もう少し深掘りしてみよう。

山県の驚愕を増幅させた第一報の誤り

 

 
山県が伊藤暗殺の凶報を聞いた目白の椿山荘。戦後に結婚式場、ホテルになる(『東京之名所』国立国会図書館蔵)

 山県の参謀役だった杉山茂丸(1864~1935)によると、邸宅の目白・椿山荘で読書中だった山県に入った第一報は「伊藤公爵がハルビンに安着(無事到着)された」だった。ほどなく「さっきの電話は『安着された』のではなく、『暗殺された』の間違いだ」という電話が入ると、山県は「なにッ」と顔色を変え、書物を投げだして安楽いすから立ち上がり、電話口に出て「安着したのか、暗殺されたのか」と問い詰めた。自ら外務省と首相の桂太郎(1848~1913)の私邸にまで出向き、いよいよ間違いないと知ると、「 () だ暗然として涙を () んだ」という(『山県元帥』)。最初の知らせが誤報だったこともあり、山県は伊藤の死に大いに驚き、すぐには受け入れられなかったのは間違いない。

 

政治の世界で先んじた伊藤

 

 伊藤と山県の最初の出会いは安政5年(1858年)、藩が天下の形勢を視察させるため京に送り込んだ6人の藩士に選ばれた時だったから、確かにふたりの交友は50年にわたる。長州(現在の山口県)の下級武士の家に育ち、吉田松陰(1830~59)の 松下村塾(しょうかそんじゅく)尊王攘夷(そんのうじょうい) 思想に触れて維新の動乱に身を投じるという経歴も、幕末まではよく似ている。

 

 明治維新を迎えると、ふたりの歩みは次第に分かれていく。山県より6年も早く渡欧して西洋文明に触れた伊藤は、新政府で殖産興業や憲法制定など「富国強兵」の「富国」を追求し、戊辰戦争で各地を転戦した山県は軍制改革や徴兵令発布など「強兵」を担う。伊藤は文官、山県は武官という役割分担のもと、ふたりの盟友関係は続いた。だが、官僚から政治家になって役割分担ができなくなると、ふたりは政治の中心の座を競うライバルになっていく。

 
明治憲法発布式典。明治天皇から2代首相の黒田清隆憲法を授かった(安達吟光「新皇居於テ正殿憲法発布式之図」メトロポリタン美術館蔵)
 
整列した軍の様子。中央に閲兵する山県が描かれている(三代歌川広重「各隊整列之図」国立国会図書館蔵)

 政治の世界で先んじたのは、山県より3歳年下の伊藤だった。参議、首相、枢密院議長など政界の要職に就いた時期は、すべて伊藤の方が早い。山県が後れを取ったのは、軍という閉じた階級社会に身を置き、政治に軸足を移しにくかったためと言われるが、背景にはふたりの性格の違いもあったようだ。

 

よく笑う伊藤、寡黙な山県

 

 新しいもの好きで果断即決の伊藤は豪放 磊落(らいらく) でよく笑い、山県はうわついたことが嫌いな謹厳実直、寡黙な人だった。吉田松陰は伊藤を「周旋家(人の間を立ち回る人物)になりそうだ」と評し、山県は長州藩士の定番だった 河豚(ふぐ) 鍋の宴席でも、毒を心配してひとりだけ (たい) を食べたというから、若いころから伊藤は社交的で、山県は慎重だったのだろう。

 

 人は派手で明るい伊藤の周りに集まったが、岡によれば、自信家である伊藤は用が済んだ部下を顧みず、情にうすいと評された。一方の山県は、最初は側近にも心を開かなかったが、力を認めると政治上の機密まで打ち明けて重用し、よく面倒を見たという。自分の先を走る伊藤に対抗心を燃やしつつ、山県は軍や省庁、貴族院などにこつこつと「山県閥」をつくりあげていく

 

伊藤潰しに動いた山県

 

 経歴や性格の違いは政治信条に反映され、元老となったふたりは衝突するようになる。最も有名なのは、立憲政治のあり方をめぐる対立だろう。憲法を起草し「立憲カリスマ」を自任する伊藤は、いずれ政党内閣が登場するのは不可避とみて、自ら政府に近い政党をつくろうと動いた。これに対して山県は、「多数党が内閣を組織するのは 欽定(きんてい) 憲法の精神に反する」と政党内閣を拒絶し、政党から独立した「超然内閣」にこだわった。

 

 伊藤は明治31年(1898年)に大隈重信(1838~1922)を首班とする日本初の政党内閣( 隈板(わいはん) 内閣)に政権を禅譲するが、山県は子飼いの官僚や貴族院議員に攻撃させて4か月で倒閣させ、自ら首相に就任する。明治33年(1900年)に伊藤が立憲政友会の結党に動くと、伊藤に後継を託して首相を辞任し、やはり派閥を使って発足した第4次伊藤内閣を徹底的に攻撃した。伊藤への政権禅譲は、誕生直後の新党ごと伊藤を潰そうという策略だったわけだ。

 

 独自の人脈を駆使して日露協商を進める伊藤の頭越しに日英同盟を締結するなど、山県が反伊藤に動いた例はほかにも多い。岡のいう「かずかずの政治的交渉」の実態は、派閥を使った山県による陰険な「伊藤潰し」だった。

 

安倍元首相は本を読了していた

 

 
安倍元首相の国葬で弔辞を読む菅氏

 話を再び菅氏の弔辞に戻す。菅氏は安倍元首相銃撃という「信じられない一報を耳にし」て、とるものもとりあえず奈良に向かった。安倍元首相との付き合いは50年には達しないが、二人三脚で憲政史上最長の政権を担った盟友だった。弔辞では「総理、あなたは常に笑顔を絶やさなかった」とも述べている。能弁で明るい安倍元首相を伊藤に、自身を口下手な山県に擬して弔辞を組み立てていったことは、想像に難くない。