稲盛和夫のことば(35)
財政再建に向けた特効薬はない。営々と生きてきた一般庶民に再び塗炭の苦しみを強いるような事態は絶対に回避しなければならない。
「日本の社会戦略」PHP研究所(堺屋太一氏との共著、212~213ページ)
インフレで国の借金帳消しは暴論
日本の課題としては、もう一つ重要なテーマが残っています。膨大な財政赤字の問題です。
いま国と地方の抱える負債は、合計1000兆円近くに上るといわれています。この巨額の負債も大問題ですが、同時にその財政問題にあたる政治家や官僚たちの多くが、心の底から危機感を抱いているようには見えないこと、また絶対に返済しなければならないという切迫感も感じていないことが、最も深刻な問題です。
財政の専門家のなかには「心配いりません。ちょっとインフレになれば帳消しになります」という人がいる。それは、私から見ると、暴論にしか思えません。
私は太平洋戦争後のハイパーインフレで、親たちがたいへん苦しんださまを見ています。中小企業の経営者だった父は、戦前に一生懸命働き、100円あれば持ち家を1軒買えるといわれた時代に、何千円かをこつこつと貯(た)めていました。また、経営者の責任として戦時国債も引き受けていました。
それが敗戦後の猛烈なインフレにより、100円で団子1個しか買えない時代になってしまった。父の落胆はそうとうなものでした。たしかに政府はインフレによって、それまで抱えていた戦時国債などの莫大(ばくだい)な借金を帳消しにできたでしょう。
しかし一方で、真面目に生きてきた一般庶民は、大変な苦しみを味わったのです。それを知ってか知らずか、「1000兆円の借金なんて…
財政拡大の事例 高橋是清積極財政と軍拡、戦後ハイパーインフレ
1927年に金融恐慌が起き、1929年の大恐慌が起きると日本経済はデフレ不況に陥った。時の大蔵大臣高橋是清による積極的経済政策。桜井昌哉氏の前掲本を参考。
1932年、高橋是清は、国債の日銀引き受けによる財政拡張に踏み切る。これが実施されると、デフレ基調であった経済は一気にインフレ基調となる。その物価高騰は1934年に沈静化する。日銀バランスシート、資産に占める国債の割合は拡大されるが、30%程度に抑制され、高橋の赤字財政には規律があった。しかし2.26事件で高橋が暗殺され、抑えるものが居なくなると、1937年、軍事予算が拡大を始めた。日銀バランスシートの国債シェアは右肩上りに増えた。1937年のインフレ率は20%、その後は平均して10%程度の数字。ただし軍事統制された時期で、内容には留意が必要。中央銀行の引き受けによる巨額の国債は終戦直後の激しいインフレにつながったわけだが、ターニングポイントとなったのは1937年のこの瞬間である。
高橋是清が抑えてきた金融秩序を説明する。まず金本位制について、日本銀行券は兌換券で、貨幣発行ルールは外貨準備、つまり金保有量に縛られる。中央銀行の独立性は自動的に保証される。金本位制が中央銀行を財政ファイナンスから守る歯止めになる。1931年12月に政府は金輸出再禁止にする。翌32年、高橋は貨幣発行ルールを変更(金準備→保証で済ます)。日本銀行券の保証発行限度は大幅に引き上げられた。これは金準備による発行ではなく、証券・商業手形の保証で良いとする日本銀行券発行。金を日本銀行券の「適格な担保」とする仕組みを放棄するものであり、これをもって金本位制から離脱。
さらに、中央銀行による国債の引き受けが開始された。高橋財政の始まりである。
1932年から35年までに発行された国債の多くが日銀の売りオペで売却された。この安定的な市場吸収を引き受けたのが、三井・三菱・住友などのシンジケート銀行団である。だから財政ファイナンスではなく、引き受けられたものだ。
しかし高橋が暗殺。暗殺された1936年以降、このシンジケート団、日銀、大蔵省の三者連携は崩壊した。財政ファイナンスが始まる。
1942年以降、貸出金という勘定が使われた。貸出金が急増。これは民間向き貸出で、日銀が軍需産業に無制限の資金供給。その額は国債の金額を大きく上回った。
日銀バランスシート