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深沢潮さんの差別テーマ人種、パレスチナは軍事力で虐待されている、イスラエルは差別される民族だった。

深沢潮さんの差別テーマ人種、パレスチナは軍事力で虐待されている、イスラエルは差別される民族だった。

 

 

引用:深沢潮「在日コリアンであることを隠してきた私が小説を書く理由」より一部引用

親を恨んでいた子ども時代

 そうやって出自を隠していても、在日コリアンであることが分かりいじめられたことはありました。私が子どもの頃は今以上に在日コリアンへの差別や偏見が強く、韓国籍では住居が借りられないことなども珍しくありませんでした。
 普段は出自を隠していても、家の中では韓国の文化を継承し、韓国式のしきたりも大事にしていました。子どもの頃、家の近所の写真館で撮影してもらったチマチョゴリ姿の私の写真が、商店街の目立つところに飾られて、周囲の人々に出自を知られてしまったことがあります。中学生のときには、本名が同じ世代の日本人の名前としては珍しく、韓国名を感じさせることから気づかれて、噂(うわさ)になったこともあります。学生時代には、そのせいで友達から仲間外れにされ、大変傷つきました。
 当時の日記を読み返してみると、世間や差別する人が悪いとは思っておらず、両親を責め、韓国籍である自分がいけないのだと自分を責めています。出自を隠していることによって、尊厳を感じられず、さらに差別を受けることで、自己肯定感が著しく低かったのでしょう。

出自を隠さず堂々と本名で生きるということ

 友達でも恋愛相手でも、長い付き合いになり親しくなると、本当の自分を知ってもらおうと在日コリアンであることを伝えようとしました。しかしそこでもやはり拒絶されることがあり、その都度ひどく傷つきました。
 それでも好きな人にプロポーズされれば、自分の出自を伝えないわけにはいきません。そのために関係が破綻したことも一度ではありません。「同じ墓には入れない」と言われたこともあります。このような挫折体験が続き、同じ環境の人と結婚するしかないと考え、お見合いを経て結婚しました。
 結婚相手は、韓国籍であることを隠さず本名を名乗って暮らしている人でした。私もいざ本名で暮らし、友人にも韓国人であることを打ち明けてみると、気持ちがとても楽になりました。離れていった人もいるけれど、すんなり受け入れ、態度が変わらなかった人もいます。差別する人は向こうから寄ってこなくなるので、むしろ差別されることは少なくなりました。「これまで努力して隠してきたことは、一体何だったのだろう」と、自分で自分を追い込んでいた側面もあったと感じました。

「在日」という言葉すら知らない人でも読める作品を

 小説を書くにあたって、差別や貧困のような重いテーマを扱う場合でも、読む人に覚悟を求めるような物語にすることは避けています。むしろ「ザイニチって何?」という認識の人でも、物語の世界にすんなり入っていけるよう意識して書いています。
 日本は同質社会なので、自分と同じものへの共感性はとても高い半面、自分と違うものに感情移入することはなかなか難しいように見受けられます。だから小説の中では、たとえ在日コリアン設定の登場人物でも、読者に「自分と同じだ」と思わせる状況設定や描写を心がけています。
 私の小説は、戦争文学のような社会的な問題を取り上げるジャンルのものではありません。例えば日常の中で、親しくしている友人が在日コリアンだったことに気づいたときに「あ、そうだったのね」と自然に受け止めてもらえるような社会が理想だと考えています。読者と同じような境遇にいて、同じようなことを考えたり感じたりしている登場人物を描くことで、読む人にもっと身近に感じてほしいのです。
 在日をテーマにした物語が多いからといって、そのことに政治的な意図はありません。日常生活の中で悩んでいる女性の話や、家族の葛藤の物語の舞台として、私に縁の深い在日の問題を扱っているだけです。小説の真のテーマは人が感じる悩みや葛藤の側にあります。

マイノリティーが弱者だと決めつけないでほしい

 東京の大久保にある「コリアンタウン」周辺でのヘイトスピーチは、それが最も顕著だった2013年に実際に現地で体験しました。『緑と赤』という作品の中でそのときの体験を基にした描写をしていますが、決して社会問題として告発したかったのではありません。実際にその現場に居合わせた者として、これは描写しておきたいと感じたからです。
 ヘイトスピーチのデモ隊が通り過ぎていき、その場にいた若い女性たちの様子がガラリと変わり、まるで死んだような表情になっていくその情景や、当事者の若い男性の投げやりな態度が忘れられなかったのです。あまりにも衝撃を受けたり、尊厳が踏みにじられたり、好きなものを全力で否定されたりしたときに、人はどうなってしまうのかを物語として描きたかったのです。
 在日コリアンへの差別に対して、積極的に対抗したり助けようとしたりしている日本人の方々もいます。ただ、そうした人の一部には、「弱者」である在日コリアンを「強者」である自分たちが、一方的に守ったり助けたりする立場としてふるまう人もいます。
 日韓問題に限らず、何らかのボランティア活動をしている人の中には、眼差しが上からの視線になっている人も見受けられます。そのことに、支援されている側の人たちが傷つくこともあるのです。それでも、もちろん助けたりサポートしたりすることは、何もしないよりもずっと素晴らしいことです。
 お伝えしたいのは、マイノリティーであることは、必ずしも弱者を意味しないということです。「恵まれない境遇の中で、頑張って生きている可哀想な人」としてひと括りにしないでほしいのです。そうではなく、人としての多様なあり方の一つでしかなく、それを「守られるべき弱者」として扱うことには違和感を持つのです。