韓国国民が涙したアメリカ連合軍の韓国弾圧1945年。沖縄ゴザ騒動の日本人なら、アメリカの酷さが理解できる
日本の太平洋戦争敗北、アメリカ駐留軍の軍政開始の状況(金時鐘『朝鮮と日本に生きる―済州島から猪飼野へ』)
日本の全面敗北。・・8月15日・・地鳴りのように歓呼の声が沸き立って・・公的機関の国旗掲揚塔には太極旗が翻って・・16日の夕刻から貼り出された「こ奴らを糾弾せよ!」という民族反逆者リスト。
いろいろな団体が勝手に名乗りを上げ、・・漢ら団・・済州島人民委員会・・9月8日、仁川に上陸したアメリカ駐留軍によって軍政が始まった。
・・9月6日建国創建を宣布したばかりの朝鮮人民共和国(大統領呂運亨)は否認・・人民委員会にも解散令。
解放軍のはずのアメリカ軍が進駐してきて、せっかくの解放にありついた南朝鮮に軍政を敷き、米占領軍司令官ホッジ中蒋の声明によって朝鮮総督府の機能、権威がそのまま踏襲され、公務員の身分まで保障されたことで、親日派、民族反逆者の追及を受けて身を隠していた連中までが、大手をふってもとの職責に返り咲く。政財界から司法検察はいうに及ばず、教育界、文化芸術界にいたるまで、あっという間にもとも木阿弥の旧体制が息を吹き返した。
引用:琉球新報
米軍人・軍属の犯罪発生件数
「おとなしいと思っていた沖縄の人がここまでやるとは。今まで虐げられ、たまっていたものが一気に噴き出した」と雛さんは感じた。今でこそ、地方都市でよく見かける市街地のようなこの場所で、たった1件の交通事故がここまで大きな騒動に発展した背景には、25年に及ぶ米統治下では全てが軍事優先で住民の安全、人権がないがしろにされてきたことがある。 住民を巻き込んだ地上戦で当時の県民の4人に1人が犠牲になった沖縄。戦後は新たな苦難の始まりだった。沖縄を統治した米民政府は1953年、「土地収用令」を公布・施行。当時の真和志村銘苅(現在の那覇新都心地区)、伊江島、宜野湾村(現宜野湾市)伊佐浜などで、武装米兵を動員し強制的に接収した。56年にはアメリカの沖縄統治を批判しその不当性を訴えた瀬長亀次郎氏が那覇市長に当選したが、米民政府は財政融資資金を凍結するなどして瀬長市政を麻痺させようとした。 米軍人・軍属による犯罪も多発していた。ベトナム戦争が激化する1960年代半ばには年間千件を超え、コザ騒動が発生した70年は960件の犯罪が起きていた。犯罪多発の一方で、米軍人・軍属に関わる交通事故の場合、捜査権、逮捕権、裁判権などは全て米軍当局に委ねられ、沖縄側ではどうすることもできなかった。加害者が無罪になったり、アメリカへ帰ったまま未解決になった例も少なくなかった。 1963年には那覇市内の軍道1号(現国道58号)で青信号の横断歩道を渡っていた中学生が、突っ込んできた米軍トラックにひかれ死亡した。赤信号を無視して人命を奪った米兵は、軍事裁判で「太陽の光がビルの壁に反射して信号が見えなかった」という趣旨の主張をし、無罪になった。 コザ騒動が起きる3カ月前の1970年の9月には糸満町(現糸満市)で、酒に酔った米兵が運転するスピード超過の車が主婦をひき殺したが、12月11日に上級軍法会議は「証拠不十分」として米兵に無罪判決を下していた。
「基地」そのものへの恐怖 蓄積した不条理
「基地」そのものに対する恐怖もあった。 1968年2月にB52戦略爆撃機が嘉手納基地に配備されると、同基地はベトナム戦争の出撃拠点となった。B52はこの年11月に離陸に失敗し嘉手納基地内に墜落・炎上。墜落事故の恐怖は周辺住民だけでなく全県に広がった。 1969年7月には国際的に使用が禁じられていた毒ガス兵器が嘉手納基地内に貯蔵されており、同月にガス漏れが事故が発生していたことを米紙ウォールストリート・ジャーナルが報道。これは沖縄でも大きく報じられ、県民の不安が高まった。世論の反発を受け、米軍は毒ガスの一部撤去を発表した。 土地が奪われ、自治が認められず、事件事故で命が奪われても罪に問うことさえできない。この不条理の蓄積が復帰前の沖縄の姿だった。