キッズ政治漫画(Hatena版)abemaぶっ飛ばせ!

キッズ政治漫画 安倍自民党のうんこ性研究サイト. 日本の政治・社会のニュースを、小学生対象にして、漫画にして報道します

柳瀬房子氏AAA難民を助ける会、相馬雪香=尾崎行雄三女、柳瀬眞国際積善協会会長

相馬雪香生誕100周年記念:相馬雪香と私<4>

2012年12月21日

2012年は、難民を助ける会の創設者、相馬雪香の生誕100周年にあたります。相馬は、インドシナ難民を支援しようと、1979年に「インドシナ難民を助ける会」(現・AAR Japan[難民を助ける会])を設立。2008年11月に96歳で没するまで、AAR の会長として、また、様々な市民団体の要職を務め、世界各地で活躍しました。
連載最終回は、AAR会長の柳瀬房子が、相馬との思い出を振り返ります。

日本人の心の開国を願って

インドシナ難民を助ける会を設立した1979年(1984年、難民を助ける会に名称を変更)、相馬前会長(以下先生)は67歳。眼光の鋭い、厳しそうなおばさまでした。「インドシナ難民に対して冷たいと日本は世界各国から多くの批判を浴びているが、日本人の多くは難民に同情を寄せている。この心を寄せ集めてできることをしたい」と宣言して活動は始まりました。政府だけに任せず民間の力で行おうと、それまで赤十字や一部の宗教団体で取り組んでいた難民支援を、何の後ろ盾もない市民団体が開始したのです。村井資長(元・早稲田大学総長)、鹿島采女(鹿島平和研究所会長)、平塚益徳(九州大学名誉教授)、藤田幸久(国際MRA日本協会(当時)専務理事、元財務副大臣)、吹浦忠正(日本赤十字看護短大助教授、ユーラシア21研究所理事長)など、相馬先生の友人、知人、関係者が集まりましたが、事務所、資金、人材不足の中、一年以上かけてようやくスタートしました。

blog1212_1077_1sohma_yanase.jpg

1994年8月28日、長野県軽井沢の自宅にて。相馬前会長(当時82歳)と柳瀬会長(左)。晩年はここで過ごすことが多かった

錚々たるメンバーの中で、私は父(柳瀬 眞国際積善協会会長)の代理として準備委員会に出席していました。自分に何ができるのか、何がしたいのかの確信もなく、興味津々と議論に聞き入っていました。当面の会の目標は「国内外の難民キャンプへの支援、定住希望者への居住先のあっせん、日本に残留しているインドシナ出身留学生の保護」と定められました。しかし、相馬先生のもうひとつのねらいは、経済大国になり、自分だけ、自国だけ良ければ良いという風潮に流されつつある日本への警鐘でした。「難民の支援を通じて、日本が世界のために何ができるかを考えてほしい」と、日本人の心の開国を念じていました。相馬先生は、精力的に難民キャンプを視察し、チャリティパーティでは毎回参加者を唸らせるようなスピーチをしました。相馬先生がステージに立ち、客席に向かって目を見開き、一言発しただけで聴衆は心をひきつけられ、静まり返ってしまうのです。同行するたびに、スーパーレディの面目躍如たる姿を見させていただきました。

私はといえば、連日さまざまな業務に忙殺されていました。当時5歳半と、生後半年の2人の娘を世話しながら、良く身体がもったものだと、今さらながら若さの力を感じます。事務局は私の実家の離れと決まったのですが、次第に座敷や応接室まで解放していました。母は後に、まさに無償で軒先貸して母屋だけでなく娘まで会に取られたような気持ち(笑)と吐露していました。

 

 

 

相馬雪香に関して

 1975年4月、カンボジアではポル・ポト軍(クメール・ルージュ)が首都プノンペンを制圧し、ロン・ノル政権が崩壊した。次いで、月末にはベトナムサイゴンが陥落し、長らく続いたベトナム戦争終結した。5月9日、最初の"ボートピープル"が日本に到着したが、その時から3年間、日本は一切の難民の定住を認めず

 

ポル・ポト政権が都市住民を農村に追いやり強制労働を課し、通貨や学校を廃止するなど、社会は大混乱に陥

 

78年後半になるとヘン・サムリンや若きフン・セン(現首相)らを傀儡にして押し立て、ベトナムが強大な軍事力でカンボジア領内に攻め入り、79年1月、ポル・ポト勢力をタイとの国境地帯であるパイリンの周辺に駆逐した。

 

大勢のカンボジア人がタイとの国境への脱出を図り、世界の目がタイ/カンボジア国境に寄せられた。映画「キリング・フィールド」の描くところであるが、当時の体験者たちはこの映画はポル・ポト時代の過酷さ

 

国際的活動に献身してこられた相馬雪香(尊父・尾崎行雄

友人や知人に難民救援活動・支援のための会の創立と参加を呼びか

1979年11月24日、日本青年館で設立総会が開催され、平塚益徳国立教育研究所所長が議長となって、規約の決定、役員の選出が行われた。

 会の名称は「インドシナ難民を助ける会」とし、相馬雪香を会長に、村井資長早稲田大学総長を副会長に選出

国際積善協会の柳瀬真会長が事務局長に。

 

1980年に父がなくなり、娘の房子が事務局長。