引用:毎日
「標準語生活をしましょう」。そんな標語が書かれたポスターが街角や友人宅に張られていた。沖縄県宜野湾市の仲村元惟(もとのぶ)さん(85)が幼い頃、1940年代の記憶だ。
1879年に日本に編入され、「同化」政策が進められた沖縄。1937年に日中戦争が勃発し、国を挙げた戦争への協力が求められると、日本本土から来た県の指導者層は県民に「日本精神」を植え付けようと独自の言葉や風習を改めるよう一段と強く迫った。「仲村渠(なかんだかり)」や「安慶名(あげな)」といった沖縄独特の姓は「仲村」や「安田」などと日本風に。「標準語励行」が呼び掛けられ、多くの学校で「方言札」が使われた。
方言札、級友との関係に影響
仲村さんは44年に入学した国民学校での体験をこう振り返る。「方言で話しているのを先生に見つかると、『標準語を使いなさい』と怒鳴られ、方言札をかけさせられた。とにかく怖かった」。教員の前ではうまく使える標準語だけを使い、友達と話していても自然と口数が減った。方言札が回ってくるのを避けるため、札をかけている子には誰も近寄らないようになった。
仲村さんの父は軍人だった。「日本本土から来る兵隊と話せるように」と、家でも標準語の使用を求められた。「息苦しさを感じた。日常の言葉を使えないということは『無言であれ』ということ。差別ですよ」
方言札をかけさせるだけでなく、教員が平手打ちをしたり、廊下に立たせたりする学校もあった。38年に當真嗣長(とうま・しちょう)さん(91)が入った沖縄県恩納村の国民学校では、終業時に方言札を持っていると罰金として1銭を教員に取られた。…