川路左衛門尉
勘定奉行・海防掛。ロシア使節プチャーチンと日露和親条約調印。
江戸開城翌日に割腹自殺・ピストル自殺。
「柳田国男対談集」。桑原武夫 日本人の道徳意識 より
日本の道徳意識を破壊した”教育基本法おとこ”
引用:朝日日本歴史人物事典の解説
没年:明治1.3.15(1868.4.7)
生年:享和1.4.25(1801.6.6)
幕末の幕府官僚。豊後(大分県)日田代官所属吏内藤吉兵衛の子。4歳の年に一家をあげて江戸に出,12歳で旗本川路家に養子に入り翌年家督相続。文化14(1817)年17歳の年勘定所の筆算吟味に及第し翌年支配勘定出役,以来昇進を重ね,嘉永5(1852)年9月勘定奉行となり海防掛を兼ねた。筒井政憲と共に露使応接掛として長崎へ出張。安政1(1854)年下田に赴きプチャーチンとの間に日露和親条約を調印。蕃書翻訳用掛,禁裏造営用掛,外国貿易取調掛,ハリス上府用掛,朝鮮通信使聘礼用掛を兼ねる。
同5年2月老中堀田正睦に随従して上洛,日米修好通商条約調印の承認を朝廷に求めたが失敗した。同年5月西ノ丸留守居に左遷され,翌年8月,徳川慶喜を支持し将軍継嗣問題に介入したとして隠居・差控の処分を受けた。文久3(1863)年5月外国奉行に起用されるが10月辞職,翌元治1(1864)年8月中風の発作が起こり左半身不随となる。
徳川将軍家への忠誠を精神の背骨におき,海外事情に通じ開明性をもち続けた。明治1(1868)年3月15日,江戸開城の風説を信じて切腹の作法を終え,短銃で自殺した。
「天つ神に背くもよかり蕨摘み飢えし昔の人をおもへば」。古代中国の聖人伯夷,叔斉 のように,新たな世に生きることをやめ天皇の治政に従わず徳川の臣として死を選ぶとの辞世の句である。<参考文献>『川路聖謨文書』,川路寛堂『川路聖謨之生涯』
(井上勲)
吉村昭著 『落日の宴~勘定奉行 川路聖謨』上・下(講談社文庫)